江戸の風俗と聞いてパッと思い浮かぶのは吉原ですよね。
とはいえ、吉原の大見世は今でいう高級ソープ。一夜に二分(現在の数万円)は下らず、庶民にとっては高嶺の花でした。
そこで人気を博したのが、一晩銀三匁(約千円)から一分少々(1万数千円)で遊べる岡場所でした。
日当千円の鳶職や大工さんでも月に一度お楽しみに利用したり、はたまた吉原帰りの武士が「ハシゴ酒」ならぬ「ハシゴ女郎」をすることもあったのだとか。
今回は、そんな江戸の裏風俗・岡場所についてご紹介します!
〇子供と呼ばれた大人の女たち
岡場所の遊女はなぜか“子供”と総称されていました。
実際は大半が20代後半で、夫子持ちの者も珍しくなく、昼間は豆腐売りや洗濯をし、夜は長屋の裏口から職場へ向かう……という二重生活が一般的でした。
浮世絵師・月岡芳年が描いた深川の岡場所では、色衣をまとわず素朴な着流しで酌をする「飯盛女(めしもりおんな)」の姿が見てとれます。
つまり、岡庭序は、色事専業というより、酒肴を運び小部屋で相手をする“居酒屋兼ね込み宿”のニュアンスが強かったといえるでしょう。
実際は大半が20代後半で、夫子持ちの者も珍しくなく、昼間は豆腐売りや洗濯をし、夜は長屋の裏口から職場へ向かう……という二重生活が一般的でした。
浮世絵師・月岡芳年が描いた深川の岡場所では、色衣をまとわず素朴な着流しで酌をする「飯盛女(めしもりおんな)」の姿が見てとれます。
つまり、岡庭序は、色事専業というより、酒肴を運び小部屋で相手をする“居酒屋兼ね込み宿”のニュアンスが強かったといえるでしょう。
〇早い・安い・気取らない!江戸のファストフード風俗
もてなしの作法や豪華な遊興を売りにした吉原に対し、岡場所は“さっさと済ませ、さっさと帰る”場所でした。
吉原では三度の杯を交わして袖を取るまで数刻掛かるのに対し、岡場所では客が木戸銭を払うと同時に寝台へ案内される……というファストフード風俗設計。
袖を引き合う艶やかな駆け引きを「章句の華」と評した当時の文人も、岡場所のことは「切支丹灯(きりしたんあんどん)※」と皮肉りました。
※切支丹灯=芯を短く切った行灯のあだ名。“すぐ消える=手早い”の意。
吉原では三度の杯を交わして袖を取るまで数刻掛かるのに対し、岡場所では客が木戸銭を払うと同時に寝台へ案内される……というファストフード風俗設計。
袖を引き合う艶やかな駆け引きを「章句の華」と評した当時の文人も、岡場所のことは「切支丹灯(きりしたんあんどん)※」と皮肉りました。
※切支丹灯=芯を短く切った行灯のあだ名。“すぐ消える=手早い”の意。
〇取り締まっても取り締まっても、イタチごっこ
当時、岡場所(おかばしょ)は全国に70カ所近く点在していたといいます。幕府は岡場所を禁じていましたが、町奉行所にしょっぴかれ、暖簾を畳んだかと思えば数か月後には別の長屋にひょっこり再興……と、まるで草の根のように生えては刈られ、また伸びる。取り締まっても取り締まっても、岡場所はいつのまにかそこにある存在でした。
長屋の路地を一歩入れば屋号を隠した「水茶屋」があり、暖簾の裏に潜む子供(女性)が手招きする……そんな景色が市井の川柳にも詠まれています。
長屋の路地を一歩入れば屋号を隠した「水茶屋」があり、暖簾の裏に潜む子供(女性)が手招きする……そんな景色が市井の川柳にも詠まれています。
〇さいごに・現代の風俗とも通じるもの
明治5年の「解放令」で遊女は名目上自由の身となり、やがて廃娼運動が起こります。決定打は1956年の売春防止法。性交を伴う売買は違法と定義され、「本番」は公には姿を消しました。
ところが人の欲は法の網を潜るもの。
手や口による類似行為であれば風営法の管理下に置ける——という抜け道が、ソープランドやデリヘルのルールとなって今日に至ります。
江戸の世に芽吹いた路地裏の花街を思い浮かべると、現代のネオン街に近しいものを感じます。
歴史は、ただ装いを変えて歩き続ける……そんなことを教えてくれるようです。
ところが人の欲は法の網を潜るもの。
手や口による類似行為であれば風営法の管理下に置ける——という抜け道が、ソープランドやデリヘルのルールとなって今日に至ります。
江戸の世に芽吹いた路地裏の花街を思い浮かべると、現代のネオン街に近しいものを感じます。
歴史は、ただ装いを変えて歩き続ける……そんなことを教えてくれるようです。