名古屋にかつて存在した遊郭をご存じでしょうか?
江戸時代に建てられ、当時は名古屋を代表する遊郭としてにぎわった風俗街。のちの中村遊郭へとつながる風俗の歴史を深堀したいと思います。
名古屋の歴史とともに、名古屋に遊郭を作った藩主・徳川宗春(とくがわむねはる)の行った政策をみていきましょう。
・名古屋の概況
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名古屋市は、日本のほぼ中央。三大都市圏の一角を担うエリア。中部地方において、物流・商業・文化の中心地域として発展し続けています。
また、大阪をはじめるとする関西商業圏と、東京を中心とする首都圏の橋渡し的な役割をしている名古屋は、新幹線を使えば、東京から2 時間弱。大阪からは 1 時間弱と好立地。連日、サラリーマンや観光客でにぎわいを見せています。
人口は、東京23区を除いて全国で3位。名古屋市の人口は、明治 22 年(1889年)の市制施行当時には、約 16 万人でしたが、昭和 9 年(1934年)には 100 万人を突破。現在は約 226 万人と栄えています。家賃相場はワンルームで6~12万円ほど。東京とあまり差がないところも、名古屋市の住み心地の良さを表しているかのようですね。
また、大阪をはじめるとする関西商業圏と、東京を中心とする首都圏の橋渡し的な役割をしている名古屋は、新幹線を使えば、東京から2 時間弱。大阪からは 1 時間弱と好立地。連日、サラリーマンや観光客でにぎわいを見せています。
人口は、東京23区を除いて全国で3位。名古屋市の人口は、明治 22 年(1889年)の市制施行当時には、約 16 万人でしたが、昭和 9 年(1934年)には 100 万人を突破。現在は約 226 万人と栄えています。家賃相場はワンルームで6~12万円ほど。東京とあまり差がないところも、名古屋市の住み心地の良さを表しているかのようですね。
・近世の繁栄

冒頭でもチラッとお伝えしましたが、名古屋の風俗が栄えたきっかけは、7代藩主・徳川宗春(とくがわむねはる)の政策でした。
当時は、緊縮政策(享保の改革)といって、政府支出を抑えたり、増税といった形で、財政赤字の削減や財政黒字の拡大をしようという試みが行われていましたが、享保 15 年(1730年)に7代藩主となった宗春は、これに真っ向から対立。
芝居小屋の増設や、遊郭の新設、藩士の芝居見物を許可したほか、子供や女の人が夜も歩ける街にするために、提灯を城下に整備するなどしました。廃れていた御下屋敷(名古屋城下、藩主の隠居所)を建て直した際には、屋敷のお披露目の際、城下の女性と子供を呼んで踊りの大会を丸2日間行わわせたことも。当時の幕府は、祭りや芝居などを縮小・廃止する政策を推し進めていましたが、宗春は民衆が喜ぶ策をどんどん出したといわれています。
自らも、猩々緋の装束をして白牛に乗り、唐人笠を被り、5尺もあるキセルを携えて町に繰り出したという逸話が残っています。
こうした宗春の政策に商人や街の人は大喜び。宗春時代の名古屋の繁盛ぶりは『ゆめのあと』と称される書物や、『享元絵巻』に見ることができます。
『享元絵巻』は宗春時代の名古屋の賑わいを絵画で表現したものですが、そこには櫓やぐらをあげた芝居小屋がたくさん描かれています。芝居小屋で公演するため、当時は京や大坂から歌舞伎役者が次々と訪れたと言われています。
そして、宗春の許可した、風俗街。
宗春の政策によって、政府公認となった名古屋の遊郭は、宗春の建てた時代は、すぐに衰退してしまったものの、それから、旭遊郭と名を変えて発展し続け、大正12(1923)年4月1日に『中村遊郭』という巨大な施設へと変貌をとげます。『中村遊郭』は吉原を見本に作られたといわれていますが、吉原が2万坪(66,000㎡)であったのに比べ、3,2万坪(105,600㎡)もあったといいますから、広さからすると、日本最大の遊郭だった、といえるでしょう。
広々とした土地と遊女のおかげで人気となった中村遊郭でしたが、1914年に起こった第一次世界大戦ごろから規制を受けるようになり、最終的には昭和32年12月に廃業を余儀なくされました。
その後、この地域は『赤線地帯』と言われ、政府が売春を許可した地域となりました。
当時は、緊縮政策(享保の改革)といって、政府支出を抑えたり、増税といった形で、財政赤字の削減や財政黒字の拡大をしようという試みが行われていましたが、享保 15 年(1730年)に7代藩主となった宗春は、これに真っ向から対立。
芝居小屋の増設や、遊郭の新設、藩士の芝居見物を許可したほか、子供や女の人が夜も歩ける街にするために、提灯を城下に整備するなどしました。廃れていた御下屋敷(名古屋城下、藩主の隠居所)を建て直した際には、屋敷のお披露目の際、城下の女性と子供を呼んで踊りの大会を丸2日間行わわせたことも。当時の幕府は、祭りや芝居などを縮小・廃止する政策を推し進めていましたが、宗春は民衆が喜ぶ策をどんどん出したといわれています。
自らも、猩々緋の装束をして白牛に乗り、唐人笠を被り、5尺もあるキセルを携えて町に繰り出したという逸話が残っています。
こうした宗春の政策に商人や街の人は大喜び。宗春時代の名古屋の繁盛ぶりは『ゆめのあと』と称される書物や、『享元絵巻』に見ることができます。
『享元絵巻』は宗春時代の名古屋の賑わいを絵画で表現したものですが、そこには櫓やぐらをあげた芝居小屋がたくさん描かれています。芝居小屋で公演するため、当時は京や大坂から歌舞伎役者が次々と訪れたと言われています。
そして、宗春の許可した、風俗街。
宗春の政策によって、政府公認となった名古屋の遊郭は、宗春の建てた時代は、すぐに衰退してしまったものの、それから、旭遊郭と名を変えて発展し続け、大正12(1923)年4月1日に『中村遊郭』という巨大な施設へと変貌をとげます。『中村遊郭』は吉原を見本に作られたといわれていますが、吉原が2万坪(66,000㎡)であったのに比べ、3,2万坪(105,600㎡)もあったといいますから、広さからすると、日本最大の遊郭だった、といえるでしょう。
広々とした土地と遊女のおかげで人気となった中村遊郭でしたが、1914年に起こった第一次世界大戦ごろから規制を受けるようになり、最終的には昭和32年12月に廃業を余儀なくされました。
その後、この地域は『赤線地帯』と言われ、政府が売春を許可した地域となりました。
〇さいごに
現在の中村遊郭跡には、高齢者向けの介護施設や、蕎麦屋などが立ち並んでいます。細い路地に入れば、現在も営業しているソープランドも。ソープランドは法律により、建物の改装ができないので、昭和時代の建物がそのまま残っています。ネオンや看板も昭和の空気感が残っている中村遊郭跡。もし、興味のある方がいれば、一度足を運んでみてはいかがでしょうか。