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人妻援護会コラム

2022

09.14

Wed

日刊デリヘル経営・援護会コラム 『名古屋の風俗に関する歴史』中編
 名古屋の遊郭はいつからあったのか。その歴史をさかのぼっていくと、はじまりは慶長15年(1610年)といわれています。この頃、名古屋では築城をはじめ、大規模な町整備が行われ、たくさんの人たちが工事に従事していました。このとき、町整備に関わる大勢の男たちをねぎらうため、飛騨屋町(現:錦通本町交差点東付近)に遊廓が設けられたのです。しかし、初代藩主・義直は遊女を禁止していたので、時代により取締が厳しくなったり緩くなったりしたものの、政府公認の遊廓とまではいきませんでした。
 では、政府公認の遊郭はいつからできたのか―ー。今回は、名古屋ではじめて政府公認でできた遊郭、その後、旭遊郭と名付けられた遊郭の歴史を深堀したいと思います。
〇徳川宗春による遊郭のはじまり
 江戸時代に建てられた名古屋発の遊郭。これは7代藩主・徳川宗春(とくがわむねはる)の政策で作られました。享保 15 年(1730年)に7代藩主となった宗春の政策は、民を鼓舞するような華やかなものばかりでした。
芝居小屋の増設や、遊郭の新設、藩士の芝居見物を許可したほか、子供や女の人が夜も歩ける街にするために、提灯を城下に整備するなどしたのです。民の盛り上がりとともに、宗春は名古屋の周辺地域に遊郭を設置する案を思いつきます。
 享保16年(1731年)、7代藩主・宗春は、遊廓の設置を許可し、西小路・富士見原・葛町(かづらまち)に遊廓を設けました。その他に南飴屋町(東本願寺付近)・栄国寺門前・西水主町など、各所に遊女を置く家を置きます。
徳川宗春のこのような街づくりは大成功をおさめ、名古屋は急速に発展しました。しかし、それと同時に、各地に配置された遊郭によって、治安が悪くなっていきます……。20年(1735年)には、西小路1か所への縮小が命じられ、元文3年(1738年)には、遊女のみならず茶屋女も一切の営業が禁止され、3廓の建物も取り壊されました。
〇政府公認の遊郭――旭遊郭の誕生
 再び、政府公認の遊郭ができたのは明治7年(1874年)、幕末の安政年間(1854~60年)に、名古屋で芝居するためにやってきた役者などが宿泊する場所として大須観音・大光院・淸安寺の墓地の裏が拓かれ、「北野新地」と呼ばれる場所ができました。この場所に明治6年頃(1873年)に娼婦がおかれるようになったといわれています。
 これを追認する形で、7年(1874年)に、「この場所でなら、娼妓・貸席・茶屋を営業することが認める」というお達しが出ます。
北野新地は墓地に囲まれた土地で、広げる余地がないので、8年に北野新地を廃止して、その西に旭遊廓を置くことになりました。遊郭内では、遊女屋のほか、『楊弓や貸馬場のような来訪客の遊ぶ場所、鮓屋や料理屋、人力車の店・写真館・風呂屋・断髪所(床屋)』などもあり、一大テーマパークのような賑わいだったと言われています。
〇その後、中村遊郭へ……
 旭遊廓は何度も災害に見舞われたことでも有名で、明治24年(1891年)に怒った濃尾地震では、倒壊してしまう遊女屋もあったそうです。その翌年、明治25年(1892年)には大須で134戸が焼失する大火災が発生。大須観音にあった五重塔や宝生座と呼ばれる劇場が焼け落ち、旭遊廓にも延焼して若松町・吾妻町の妓楼なども何軒も焼失しました。
 明治36年(1903年)にもまた大火事が発生。18軒が全焼しています。何度も訪れる災害にもめげず、立ち直っていった旭遊郭の娼妓の数は増えに増え、『名古屋市史』によると明治27年(1894)頃は約700人だったのが、大正3年(1914年)には妓楼が179軒で娼妓が約1,600人になっていたといわれています。しかし、名古屋の一大テーマパークとして盛り上がっていた旭遊郭でしたが、最終的には「街中に大規模な遊廓があるのは景観をそこねる」という理由から、明治45年(1912)に時の県知事深野一三が移転することが決定され、旭遊郭はその歴史に幕を閉じました。その後、中村遊郭という名前となり、移転していきました。

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