Column
人妻援護会コラム

2022

12.26

Mon

日刊デリヘル経営・援護会コラム 『京都の風俗に関する歴史』後編
『京都の芸妓――体は売らないって本当?』
芸者といえば、「芸は売っても体は売らない」と言われています。「一流の芸者は、芸を売っても、体は売らない」というのは、皆さんも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
結論から先に言うと、体を売る芸者は江戸時代に存在しました。当時は、「蹴転」と呼ばていたそうです。
現在の芸者さんは、芸を売るだけではなく、日本の伝統・文化を守っていく存在。しかし、発足当時の芸妓さんは、だいぶ事情が違っていたようです。
鳥居清長 「当世遊里美人合・橘町芸者と男」
〇芸妓が遊女のように客を取ることは、建前上禁止
江戸時代も、芸妓がお客様をとるというのは、原則として禁止されていたと言います。
その理由は、芸者というのは「遊女の宴席の引き立て役」という位置づけだったから。遊女のほうが格が上だといわれていたのです。
ですから、隠れて客を取った芸妓には宴席に出ることを禁じることがあったり、追放処分をすることもありました。京都では、芸者が遊郭の客に身体を売ることは、遊女の仕事を奪うこと。決して許されるものではありませんでした。
ただし、実際には、隠れて客を取る芸妓もいました。そのような人たちのことを「蹴転」(けころ)と呼んでいたそうです。蹴れば(お金を渡せば)すぐ転ぶ(寝る)」が語源となっています。
幕府公認の遊郭である『吉原』は厳しかったそうですが、そのほかの地では、芸妓は「お金を出せばすぐ『転ぶ(寝る)』」といわれたそうです。
これはあまり知られていない話ですが、「客をとらない」と表向きで言っていなかったことで、遊郭ではできないような『3P』などの複数プレイもできたとのこと。そう聞くと、なんだかとってもやらしい感じがしますよね。
〇江戸時代の京都は遊郭天国
江戸時代、京都は男性が遊ぶところが本当に多かったといいます。『八犬伝』の滝沢馬琴が京都に来たおりには、紀行文のなかで「洛中半ば妓院」(洛中は遊廓だらけ)と嘆じているくらいです。
幕末になると、各藩の壮士たちが京都の遊廓・花街で遊んだといいます。藩の運動資金をたっぷりと使える上層の藩士は祇園・島原の芸妓と遊び、下っ端は五番町や七条新地で娼妓を相手にしていたと言われています。
当時、祇園は勤皇側。『勤皇芸妓、君尾は長州系の見世(今でいう置屋)島村屋の芸妓で井上聞多と逢瀬を楽しみ、幕末史の一章を飾った』のだそう。
元・内閣総理大臣の伊藤博文も、花街で遊び倒したと言われています。
「酔うては枕す美人の膝、覚めては握る天下の権」―――そう叫びながら、花街で豪遊していたという幕末の志士。今も、ボーナス後には、「遊ぶぞー!!」と男性が風俗街に向かいますが、今も昔も変わらない風景なんですね。風俗で英気を養い、また戦いに出る。この歴史は今後も続いていきそうです。
鳥居清長 「市川八百蔵と二美人」

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