Column
人妻援護会コラム

2023

01.16

Mon

日刊デリヘル経営・援護会コラム 『品川の風俗に関する歴史』
現在は関西からの玄関口となっている品川。
明治に入るまで、東海道を往来する交通の手段はなく、人々の移動が徒歩であったときには、江戸に入る前にひと息つく宿泊所として賑わいを見せていました。
今回は、年間の客数が53万人とも言われた、品川遊郭の歴史をご紹介します。
葛飾北斎 「東海道五十三次 絵本駅路鈴 品川」
もともと宿場町として栄えていた品川。当然ともいえる流れで、江戸時代には遊郭ができました。
品川は江戸を出ると最初に行きつく宿場。旅立つ人も見送る人も、茶屋で一杯飲んで別れるのが恒例でした。入口の左側に小料理屋がズラリと45軒、できたての料理を店頭にならべて、「へい、らっしゃい!」と大きな声で客を呼び込んでおり、当時はすごい活気があったと言われています。
遊郭の数もお客の数に比例して、どんどん増えていき、幕末には90軒を超える遊郭ができました。花街・品川の全盛期です。
しかし、明治時代になると、遊郭は禁止されるようになり、貸座敷と呼ばれるように(貸座敷とは、女性を買う場所のこと)。
幕末からは減少しましたが、歩行新宿に21軒、北品川宿に16軒、南品川宿に17軒、全体で54軒(明治10年頃)の貸座敷がありました。
1923年、関東大震災が起こったことはあまりにも有名ですが、これにより吉原が大打撃を受けると、代わって品川遊郭が大発展を遂げました。品川は多少の被害はあったものの、火災などは起こらず、建物の倒壊などがなかったためです。
当時、品川遊郭は、被害の惨状を顧みて、営業を自粛していたのですが、遊郭が機能しないことで犯罪が増えることを危惧した警察が、一刻も早く営業の再開を、と品川遊郭に求めたといわれています。
(震災が起こると、被災地では性犯罪が増えるそうです。夜トイレに行こうとした女性に男性が襲い掛かるのだとか……。性犯罪が起こっても、「みんな大変なんだから我慢しろ」と女性たちは言われていたといいます)
 実際、震災直後の品川には、客が殺到しました。あまりにも盛況で、数カ月の間は連夜満員で遊べなかったともいわれています。1922年当時、年間33万人だった客数は、震災後の24年には53万人に増えました。娼妓の人数は約4000人ほどだったので、当時の女性たちは目の回る忙しさだったと想像できます。
ただし、客数は増えたものの客単価は減少し、1923年には4円85銭だったのが震災後は3円54銭になったといいます。その後、1929年に恐慌が怒ると、2円台にまで低下したのだとか。この理由はずばり、客層の変化。江戸時代の遊郭の客のほとんどは大名屋敷の武士であり、19世紀までは富裕層が座敷で遊んでいましたが、20世紀にはいると中流階級が主流になったためです。
このようにして、盛況だった品川・花街でしたが、徐々に人口の重心が海側から山の手側に移動し、海側が工業地帯として栄えるようになると、宿場町の活気は失われていきました。
とはいえ、現在も品川周辺はデリヘルの激戦区。今も、東京に出張で来た男性たちの間で品川風俗は盛り上がりを見せています。

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