『若者の街』として有名な『渋谷』。しかし、そんな渋谷も1歩道を入れば、そこは怪しげな通りに早変わり・・・・・・。
109を右手に見上げながら道玄坂を登ること10分。坂を上るのに疲れたころ、右手に道が分かれ、『しぶや百軒店』のゲートが見えてきます。そこをくぐれば、無料案内所が……この先は大人の世界の入り口です。
道の突き当りには、千代田稲荷神社の赤い鳥居が立っており、その隣はラブホテル。左折して道なりに進めば、円山町に変わり、どこもかしこもラブホテル……。
今回は、そんな渋谷のディープスポットをご紹介します。

〇昭和30代、百軒店は青線だった?
六星占術で有名な細木数子さんの著書には、このように書かれています。
『渋谷や新宿で不良をやっていたという六十数歳になるという広域暴力団の元中堅幹部が言う。「昭和三十年代の百軒店は、店の全部がそうだとは言わないけど、川崎の堀之内や大阪の飛田新地みたいな”ちょんの間”専門だったはずだ・・・」(細木数子魔女の履歴書/溝口敦)』
実際、百軒店のあたりの家には、ドアが2つある建物などもあり、女性たちが春を鬻いでいた匂いがほんのりと残っています。
地理関係で言うと、百軒店の裏に円山町の三業地があったことになるのですが、当時は百軒店のほうが安く遊べたといいます。
『渋谷や新宿で不良をやっていたという六十数歳になるという広域暴力団の元中堅幹部が言う。「昭和三十年代の百軒店は、店の全部がそうだとは言わないけど、川崎の堀之内や大阪の飛田新地みたいな”ちょんの間”専門だったはずだ・・・」(細木数子魔女の履歴書/溝口敦)』
実際、百軒店のあたりの家には、ドアが2つある建物などもあり、女性たちが春を鬻いでいた匂いがほんのりと残っています。
地理関係で言うと、百軒店の裏に円山町の三業地があったことになるのですが、当時は百軒店のほうが安く遊べたといいます。
〇円山町に花街が誕生したのは、明治20年
円山町が三業地として、指定されたのは1913年のこと(大正2年)。三業地とは、料亭・芸者置屋・待合の3つの営業を持った地帯のことです。これらの営業は、警察署の認める指定地に限られているため、三業の営業許可地であることを示す称呼となりました。一般名称として使うほか、地域名を冠して○○三業地ともいいます。三業地は売春するところではない、と書かれている記事もありますが、三業組合は、もともと明治初年に遊廓(ゆうかく)で貸座敷、引手茶屋、娼妓(しょうぎ)の三者が結成したのが先でした。円山町も、1980年ぐらいまで、花街としてにぎわっていました。
百軒店よりも高級だった、三業地・円山町。
その相場はいくらだったかというと……1968年発行の『プレイモア』に書かれていました。
それによると、
『特級酒、ビールとも二百円。付け出し三品で三百円……
花代は税込み一時間千百円。席料は、ひとり千円前後と考えてよい』
とのこと。
当時のお金の価値は約×3.9と言われていますから、ビール780円、付け出し3品で1170円、花代4290円、席料3900円……という相場だったのでしょう。
大体、1万円で遊べる計算です。1万円でビールも飲んで、女の子とプレイできるなんて、いい時代でしたね。
百軒店よりも高級だった、三業地・円山町。
その相場はいくらだったかというと……1968年発行の『プレイモア』に書かれていました。
それによると、
『特級酒、ビールとも二百円。付け出し三品で三百円……
花代は税込み一時間千百円。席料は、ひとり千円前後と考えてよい』
とのこと。
当時のお金の価値は約×3.9と言われていますから、ビール780円、付け出し3品で1170円、花代4290円、席料3900円……という相場だったのでしょう。
大体、1万円で遊べる計算です。1万円でビールも飲んで、女の子とプレイできるなんて、いい時代でしたね。
〇さいごに
現在の円山町は、ラブホテル街というイメージですが、花街の名残を感じることもできます。ふらふらっと歩いていくと、料亭などが見つかる、ふしぎな街・円山町。花街のおもかげを探しに、渋谷を訪れてみてはいかがでしょうか。