東京都江東区東陽―――。この地名がピンと来ない人もいるかもしれませんが、「洲崎」と聞けば、何人かには馴染み深いかもしれません。現在、その地名は過去のものとなりましたが、かつての洲崎には、吉原と同等の規模を誇る、見過ごせない遊廓が存在していました。しかし、今ではそれは昔の話となっています。
今回は、「永遠のナンバー2」という運命を背負わされた遊郭、洲崎の物語です。
〇洲崎の遊郭の歴史は江戸時代にまで遡る
江戸時代の近世において、「遊郭」といえば吉原が有名でした。他にも江戸には遊里が点在していましたが、吉原やその他の公許遊郭とは異なり、「岡場所」と呼ばれる私娼窟として扱われ、厳然と区別されていました。
その一つが、根津遊里。現在の東京大学農学部の近くに位置する根津神社周辺に存在し、明治時代以降は貸座敷指定地となり、吉原に次ぐ規模を誇っていました。
根津神社には、「乙女稲荷神社」として知られる神社が末社として祀られています。この神社には、女性の美しさや魅力を引き出すとされる神徳があるとされ、かつての遊女たちもお参りしていたと言われています。
その一つが、根津遊里。現在の東京大学農学部の近くに位置する根津神社周辺に存在し、明治時代以降は貸座敷指定地となり、吉原に次ぐ規模を誇っていました。
根津神社には、「乙女稲荷神社」として知られる神社が末社として祀られています。この神社には、女性の美しさや魅力を引き出すとされる神徳があるとされ、かつての遊女たちもお参りしていたと言われています。
〇根津~洲崎へ
根津遊郭は、かつて娼妓1,000人近くを抱える大規模な遊郭として存在していましたが、その立地が最高学府(東京大学)の近くであることから、当時の風潮に反しているとして、明治17年(1884)に3年間の猶予をもって営業禁止令が出されました。この期間中に洲崎が埋め立てられ、根津遊郭は明治20年(1887)6月末をもって営業を終了し、7月からは洲崎での営業に切り替えられたのです。
根津から洲崎への移転は、貸座敷が97軒、引手茶屋が40軒、娼妓が974人というものすごい規模で行われました。また、遊郭に付随する飲食店や酒場、雑貨店なども一緒に移転し、まるで一つの町が丸ごと移動したかのようだったといいます。
当時の証言によれば、本八幡楼の人たちは、特別な装飾が施された日傘を持ち、娼妓たちは黒塗りの高さ一尺程度の下駄を履き、娼妓と新造(娼妓の新人)が二人乗りの車に乗り、車夫も伴天(娼妓の名前を染めたもの)を身に着け、その他に芸妓や幇間も同行し、計178台の車が参加した「移転祭り」が行われたとされています。
根津から洲崎への移転は、貸座敷が97軒、引手茶屋が40軒、娼妓が974人というものすごい規模で行われました。また、遊郭に付随する飲食店や酒場、雑貨店なども一緒に移転し、まるで一つの町が丸ごと移動したかのようだったといいます。
当時の証言によれば、本八幡楼の人たちは、特別な装飾が施された日傘を持ち、娼妓たちは黒塗りの高さ一尺程度の下駄を履き、娼妓と新造(娼妓の新人)が二人乗りの車に乗り、車夫も伴天(娼妓の名前を染めたもの)を身に着け、その他に芸妓や幇間も同行し、計178台の車が参加した「移転祭り」が行われたとされています。
〇宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』の舞台?
宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』には、舞台になる千尋の世界に幻想的な場面が数多く描かれています。この映画に登場するシーンを見た際、洲崎遊郭を連想した人も多かったといいます。明治時代の東京湾から見た夜の洲崎遊郭の光景が、このシーンを思い起こさせたのだとか。『千と千尋の神隠し』の幻想的な世界と実際の歴史が結びつくことで、より深い魅力が生まれますね。