『江戸時代の春を売る仕事』というとどんな女性を思い浮かべますか?「吉原の……遊女?」と答える男性は多いでしょう。
しかし、吉原の遊女は庶民にとっては贅沢すぎる遊びです。
江戸の浅草の紙漉き職人たちが、紙の材料を水に浸す間に吉原の遊郭に足を運び、買いもしないのに遊女を見たり、柵の外からからかったりしていたことから『ひやかす』という言葉が生まれたほど。紙漉き職人たちだって、本当は遊女と遊びたかったはずですよね。
でも、そんな庶民たちにもちゃんと遊べる女性がいました。『飯盛女』と呼ばれた女性です。
〇飯盛女ってどんな女性?
娼婦が吉原遊廓や他の政府が指定した遊廓でしか営業できない一方で、「飯盛り女」と呼ばれる女性が宿場や料理屋で働くことが許されていました。彼女たちは現代で言うところの仲居さん。
街道の宿場で、泊り客にごはん(飯)を盛ることから、飯盛女と呼ばれるようになったと言われています。
彼女たちは、当初、売春を行う女性だけを指すわけではありませんでした。
……ところが、しだいにお客さんに呼ばれると寝床にきて、「おこづかいあげるから……いいでしょ?」なんて感じで夜の相手もするようになったそう。いつしか、飯盛女は宿のスーパーコンパニオン的存在になったというのです。
ちなみに、「飯盛り女」というのは俗称で、1718年以降の幕府の法令では「食売女」と表記されています。
最初は、宿場の給仕がメインでしたが、徐々に料理屋や娯楽施設でも働くようになりました。
街道の宿場で、泊り客にごはん(飯)を盛ることから、飯盛女と呼ばれるようになったと言われています。
彼女たちは、当初、売春を行う女性だけを指すわけではありませんでした。
……ところが、しだいにお客さんに呼ばれると寝床にきて、「おこづかいあげるから……いいでしょ?」なんて感じで夜の相手もするようになったそう。いつしか、飯盛女は宿のスーパーコンパニオン的存在になったというのです。
ちなみに、「飯盛り女」というのは俗称で、1718年以降の幕府の法令では「食売女」と表記されています。
最初は、宿場の給仕がメインでしたが、徐々に料理屋や娯楽施設でも働くようになりました。
〇飯盛女はどこにいたのか
飯盛女のいた場所は、品川(東海道)、内藤新宿(甲州街道)、板橋(中山道)、千住(日光・奥州街道)など。
飯盛女が多数いた宿場は、遊里の役割も持つようになり、飯盛女を置いている旅籠屋は、事実上の女郎屋となったといわれています。
気になる揚代は、夜は四百文(11250円くらい)、昼は六百文(16875円)くらいだったそうです。
プレイ時間にもよりますが、かなり安いですよね。
江戸時代は『生挿入』が基本だったはずですから、飯盛女は激安だったのではないでしょうか。
揚代の額には幅があり、なかには高級な飯盛女も存在したといいます。
飯盛女が多数いた宿場は、遊里の役割も持つようになり、飯盛女を置いている旅籠屋は、事実上の女郎屋となったといわれています。
気になる揚代は、夜は四百文(11250円くらい)、昼は六百文(16875円)くらいだったそうです。
プレイ時間にもよりますが、かなり安いですよね。
江戸時代は『生挿入』が基本だったはずですから、飯盛女は激安だったのではないでしょうか。
揚代の額には幅があり、なかには高級な飯盛女も存在したといいます。
〇いまも引き継がれる資料
品川では道中奉行の許可のもと、500人の飯盛女が置かれていたと言われています。
しかし、実際にはその倍以上が働いていたのだとか。
その当時の資料や絵画が残されているので、興味のある方はぜひ検索してみて下さいね。
しかし、実際にはその倍以上が働いていたのだとか。
その当時の資料や絵画が残されているので、興味のある方はぜひ検索してみて下さいね。