Column
人妻援護会コラム

2024

08.07

Wed

日刊デリヘル経営・援護会コラム『江戸の風俗 洒落本』
江戸時代に書かれた書物。と聞くと、それだけで「うわ、難しそう……」と腰が引けそうですよね。
しかし、そこに書かれている内容が、孔子と老子と釈迦の三聖人が李白の経営するソープランドへ赴き、釈迦がソープ嬢を連れて駆け落ちする話だとしたら、「なにそれ、面白そう!」と身を乗り出しちゃうんじゃないでしょうか。
1757年に書かれた『聖遊郭(ひじりのゆうかく)』別名『雪月花』(1757年)はまさにそのようなことが書かれています。すべて口語調で書かれているので、当時の人々は漫画をみるような感覚で読んでいたのではないでしょうか。
そう、これこそが洒落本(しゃれぼん)といわれるものです。
洒落本で描かれる世界は遊廓などの遊所の遊びがほとんど。遊女と客の駆け引きを描写したり、野暮な客を笑いのめした内容など、粋なトークが繰り広げられていました。
江戸の庶民にとっては、ただ面白いだけではなく、「遊女と遊ぶときにはこうするのか」と学びのある内容でした。現在の風俗体験記のような一面を持っていたんですね。

洒落本は小型で持ち運びしやすいサイズだったので、「蒟蒻本」とも呼ばれました。その名の通り、蒟蒻(こんにゃく)のサイズに近かったからです。
洒落本のルーツ
洒落本のルーツはというと、仮名草子の遊女評判記や井原西鶴の浮世草子まで遡ります。先駆けとなるのは享保年間(1716-1736年)の『両巴巵言』(りょうはしげん)や『史林残花』。そのときには、漢文体で江戸・吉原の風俗について描いていました。
これがいつしか俗語の会話体に変わり、无々道人(漢学者沢田東江の変名)の『異素六帖』(1757年)では、仏者、歌学者、儒者の3人が遊里について面白おかしく議論するという、現代の同人誌のような内容になっていきました。このバカバカしくて面白い内容が、江戸の人々は夢中だったんです。

明和期(1764-1772年)になると、洒落本のスタイルが確立されます。ここでは、通を気取る男がうぶな息子を吉原に連れて行くというストーリーが展開され、茶屋の女房や遊女らとの会話を通じて吉原の風俗や粋と野暮の対比が描かれました。この描写が大評判を呼び、似た話がたくさん作られます。

そして、天明期(1781-1789年)に洒落本は全盛期を迎え、山東京伝や大田南畝が代表的な作者として名を馳せました。しかし、1791年、松平定信の寛政の改革により、多くの作品が摘発され、版元の蔦屋重三郎は過料、京伝は手鎖50日という厳しい処罰を受けました。これにより、一時洒落本は姿を消しました。

しかし、洒落本の復活を望む声は多く、寛政の後期に洒落本はまた作られるようになります。その後は、遊郭についてというよりも、滑稽本や人情本へとシフトしていきました。

現在でも、洒落本は『洒落本大成』(29巻、補巻1、中央公論社)というシリーズでまとめられているので、国会図書館などで読むことができます。
江戸の笑いと当時の『粋』なトーク術。興味が湧いた方はぜひ、読んでみてください!
Top