Column
人妻援護会コラム

2024

08.30

Fri

日刊デリヘル経営・援護会コラム『江戸の風俗 置屋』
前回、『揚屋』(リンクお願いします)についてお話ししましたが、『揚屋』と密接に結びついている『置屋』の存在が気になった方もいらっしゃるのではないでしょうか。
今回は、歌や舞を伴う遊宴の町・花街で、太夫や芸妓を『揚屋』に派遣していた『置屋』についてご紹介します!
〇置屋ってどんなところ?
置屋は簡潔に言うと、『遊女や芸者が居住する場所』です。
『置屋』は江戸時代から明治時代にかけて存在しており、遊女や芸者を送り出す場所として機能しました。「遊女が大勢いるなら、そこで遊べるんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、当時は遊ぶ場所は『揚屋』と決まっていました。置屋は「もてなすところ」ではなく「遊女や芸者の居住空間」だったのです。
『江戸の風俗 揚屋』でも説明していますが、『揚屋』の女将から「粋なお客さんがきたので、○○さん派遣してちょうだい」という手紙が届くと、『置屋』は遊女を送り出しました。
そのため、吉原の女郎屋には「置屋」という別名はつきません。

明治以降になると、女郎屋には「貸座敷」という公用語が使われるようになり、置屋は芸妓(げいこ)に関連して使われるようになりました。そのうち、「芸妓置屋」という言葉が全国で通用するようになりました。

その後、置屋はさまざまな呼ばれ方をするようになりますが、江戸時代から現代まで、『遊女や芸者が住む場所』は各地にあり続けました。
〇現代にも残る『置屋』の名前
現代でも、舞妓さんや仕込みさんが生活している場所を『置屋』といいます。
『置屋』はただの住まいではなく、若い見習いさんを迎え入れ、立派な舞妓さんに育てる大切な役割を担っています。
中学を卒業したばかりの見習いさんの少女たちは、置屋の女将「おかあさん」のもとで、生活全般を面倒見てもらいます。この「おかあさん」は、京都の花街の伝統と品格を守るために、彼女たちに
しきたりや礼儀作法を厳しく教え込むのです。
やがて少女たちは舞妓デビューすると、お客さんが待つお茶屋へ向かいます。その際も「おかあさん」がスケジュール管理を行い、スケジュールを調整します。
なんだか、江戸時代の女将の姿をほうふつとさせますね。
そう、現在も、置屋は花街の伝統を守る縁の下の力持ちとして機能しています。
そこで働く女性たちの存在をなくして、舞妓さんの優雅な姿は見ることができません。江戸時代の遊女のゆたかな芸も、置屋で培ったもの。
置屋は今も昔も優雅な花街の文化を守るために重要な役割を担っていたんですね。
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