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人妻援護会コラム

2025

02.11

Tue

日刊デリヘル経営・援護会コラム『江戸の風俗 べらぼう〜蔦屋重三郎』
2025年(令和7年)から始まるNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(つたじゅうえいがのゆめばなし)。
江戸時代を舞台に、今も語り継がれる天才浮世絵師や作家の才能を見出し、世に送り出した出版人「蔦屋重三郎」(つたやじゅうざぶろう)の波乱万丈な人生を描いています。

今回は、実際の蔦屋重三郎はどんな人物だったのか。その生き様をご紹介したいと思います!
〇大河ドラマ『べらぼう』のあらすじ
18世紀半ば、すっかり平和な世となった江戸時代。
吉原の貧しい家庭に生まれた蔦屋重三郎は、幼くして引手茶屋の養子となります。
引き手茶屋の仕事は、吉原や遊郭内で遊客を遊女屋へ案内することでした。

やがて彼は吉原大門前に書店を構え、洒落本や黄表紙などの出版で「江戸のメディア王」と呼ばれるまでになります。その才能は本だけに留まらず、喜多川歌麿や葛飾北斎、東洲斎写楽といった浮世絵師たちの名作を世に送り出しました。

やがて、時代が移り変わり、寛政の改革による厳しい弾圧が始まります。それでも重三郎は信念を貫き、江戸の文化とエンターテインメントを守り続けるのでした。
〇貧困と遊郭の影で育った少年時代
1750年(寛延3年)、吉原遊郭(現在の東京都台東区)で、蔦屋重三郎は貧しい庶民の家庭に生まれました。その後、幼い重三郎は、吉原の引手茶屋(遊郭の客を遊女屋に案内する茶屋)に養子に出されました。

華やかな遊女の衣装、粋で洒落た客人たち、そこで交わされる言葉や振る舞い――そうした
きらびやかな遊郭文化を見て、幼い重三郎は育っていきました。いつか自分もこの町の華やかさを支えるような仕事をしたい。そんな夢が、彼の胸に小さな種として宿っていったのです。
引手茶屋の養子としての生活に満足しなかった重三郎は、1768年頃(明和5年)、18歳前後で吉原を離れる決断をします。
〇江戸のメディア王への道
吉原を離れた重三郎は、1768年(明和5年)頃、吉原大門前に書店を開業します。
当時、江戸は田沼意次の政治によって商業や文化が活性化し、自由な空気が広がっていました。その波を敏感に感じ取った重三郎は、ただ書店を営むだけではなく、出版業に乗り出します。

彼が手がけたのは、洒落本や黄表紙といった斬新な書物でした。
洒落本は遊郭を舞台にした滑稽で洒脱な物語、黄表紙は庶民の日常や社会風刺を描いたユーモアたっぷりの読み物です。
重三郎が出版した山東京伝の洒落本などは、江戸っ子たちの間で大人気となり、一躍ヒット商品に。これにより重三郎は、瞬く間に「江戸のメディア王」と呼ばれる存在に成長していきます。

重三郎の目利き力は出版物だけにとどまらず、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や葛飾北斎(かつしかほくさい)、さらには謎多き浮世絵師・東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)など、後世に名を残す天才浮世絵師を発掘していきました。

絢爛豪華な美人画から、個性あふれる役者絵まで、幅広い作品を世に送り出していった重三郎の書店。
彼の書店は、いつしか、ただの本屋ではなく、江戸の文化人たちが集うサロンのような場所になりました。時代の最先端を行くアーティストや作家たちが交流し、そこから新しい文化が次々と生まれていったのです。
〇寛政の改革との闘い
しかし、重三郎が「江戸のメディア王」として絶頂を迎えていたころ、江戸幕府の方針が大きく変わります。1790年(寛政2年)、老中松平定信による寛政の改革が始まり、風紀の厳しい取り締まりが行われるようになりました。洒落本や黄表紙、浮世絵などは「風俗を乱す」とされ、次々に規制の対象となります。

当然、重三郎の出版活動も幕府から弾圧を受けることに。しかし、彼は決して諦めることなく、文化の火を消さないために奮闘し続けました。
〇さいごに・江戸っ子でありつづけた重三郎
1797年(寛政9年)、蔦屋重三郎は惜しまれつつも47歳でこの世を去ります。
短い生涯ではありましたが、彼が残した影響は計り知れません。洒落本や黄表紙のユーモア、浮世絵の艶やかな美しさ――それらすべてが彼の人生そのものを物語っています。

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